高校時代を振り返って

表題「高校時代を振り返って」で母校の都立大森高校16期会ホームページに投稿してあったのをコピペしました。


E組 日下 覚    
                                             
[入学まで]
  瀬戸内海に浮かぶ風光明媚・白砂青松のオリーブの島に江戸時代初期から続く家の11代頭首の長男として昭和20年12月に生を受けた。つまり私は12代目。そんなこんなで中学3年の2学期までは地元の商業高校を卒業して家業を継いで安穏と島で一生を過ごすものと考えていた。

[突然の激震]
激震は突然にやってきました。中学3年のとき11代目の放漫経営により家業は破綻(何処にでもあるストーリーですね)、私を祖母に預けて家族は夜逃げ同然で夏の終わりに東京へ。3学期に入って、入試が近づいてきた頃、卒業を目の前にして受験資格(東京在住)を満たすために蒲田中学に編入。ある日の夕方の船で小豆島から岡山県の宇野へ、そこで夜行急行「瀬戸」を捉まえ夜汽車に揺られて薄暗くこ汚い品川駅に降り立ち東京での第一歩を刻んだ。小豆島の桟橋には大勢の同級生と担任の先生が見送りにきてくれていた。品川に下りた当時は、まだ新幹線もなく物理的な距離、文化的な距離の大きさ・遠さを痛感した。暫くして、思いもかけない二人のクラスメイトからラブレターを貰った。心根の優しい人達でした。残念ながら一人は神戸の震災で他界してしまった(中田さん安らかに成仏ください)。一人は何処にいるのか分からない、会えるなら会ってみたい(飯塚さ~ん)・・・・。

[入試]
蒲田中学では当初クラスメイトと担任から珍奇の目で見られ少々差別的・侮蔑的な取り扱いを受けた。そのこと自体何の恨みも無いが、模擬テストは目茶易しかった記憶がある。元来、職人肌の理系だったので私大付属工業高校を保険に都立高校の入試を受けた。試験当日の夕刊だったか翌朝の新聞で答をチェックして、正式通知を待たずに工業高校の合格を蹴った(都立の結果が分かる前に入学金を払う必要があった)。この選択は人生で最初の大きな決断だったかもしれません。

[A組]
1年の時はA組だった。担任は、苦手な漢文の先生で往生した。時々、潜水艦の話がでた、ジャイロスタビライザーを文系の人が表現すると、皆さんが聞いたとおりの話になるのでした。まぁー、兎に角、日々が所謂カルチャーショックでしたね。丁度、この前後にクレージーキャッツの「おとなのマンガ」が始まり、昼はそれを見たさに学校の裏塀を乗り越えてラーメン屋へ直行していた。校門の前の文具屋だったかお店の公衆電話を、特殊な操作(料金がタダになる)で電話していた奴がいたのを覚えている。昼休みは体育館で毎日のようにバスケットをやった。テニス以外の運動競技はどれも平均以上のパフォーマンスを示したと思っている。テニスは婦女子がやるものと決め付けていたが、後年それにトラップされ遅まきながら優美なフォームで力強い球を打つのでした。う~ん、ゴルフもスイングの美しさだけだったら誰にも負けないと思う。

[E組]
  兎に角、タバコ・パチンコ・マージャン・玉突き・・・平々凡々の堕落した高校生活でした。そんな中、英語は相変わらず駄目、物理・化学は何時も満点!?あるとき、物理の理不尽な採点にクレームをつけて100点にさせたことがある。思えば私の子供じみた独りよがりのクレーム人生はここから始まったのかもしれない。英語は後年、仕事で必要に迫られ読み書き喋り3拍子揃うまでになった(お金と時間を惜しみなく注ぎ込んだ)。最近では必要書類を全部自分で作成し地方行政府を相手取り調停訴訟をやって完勝したこともある。偶然、超有名な親分(故人)の杯を頂いたこともある。人生長くやっていると色々あります。それは、また改めて書きましょう。私のブログ https://blog.ja1scw.net/ も見てください。
源平の古戦場、讃岐は牟礼町より

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プロフィール

厚木の住人

厚木の住人は1945年小豆島生まれ、1975年から厚木在住、1973年よりテレビ放送用映像機器設計に従事し、2008年から機能性能に優れたRigExpert Ukraine社製品の日本語対応に協力、主にアマチュア無線家の皆様にお届けして来ました。ブログの元投稿日は2005年~です。

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